【エセー009】コンセントの抜かれた知能と、触れうる「土」への回帰

【エセー009】コンセントの抜かれた知能と、触れうる「土」への回帰

お久しぶりです。
長らく更新が遅れてしまい、すみません。。

 

いきなりですが、
皆さんはAIを使っていますか?

 

今回は、いつもとすこし違う角度からこの世界について触れてみたいとおもいます。

(もっとやわらかく書きたかったのですが、だいぶ文章がカタくなってしまいました。あしからず....)


一夜にして消え去った、最先端の知能

2026年6月10日に発表されたAnthropic社の最新AIモデル『Claude Fable 5』が、わずか3日をもって、全ユーザーを対象に利用停止措置が取られました。
理由は、米国の輸出管理規定への対応によるもの。


Anthropic社の公式声明によれば、
米国政府が最も恐れたのはモデルが自律反乱を起こしたことではなく、「人間が施した安全フィルターを、悪意ある第三者が特定のプロンプトによって容易に無効化(脱獄)できてしまう未修正のルートが見つかった」という点です。 

つまり、AI自体に悪意はなくても、
悪意を持った人間にAIを兵器として悪用されるリスクが、現行のサイバーセキュリティの許容値を超えてしまったのです。


AIではなく、ヒトの問題なのです。


それともうひとつ。

この一連のニュースが私たちに突きつけたのは、技術の是非のみではありません。

インターネットのシステムやクラウド上のサービスというものが、一国の政府の命令ひとつ=「コンセントを抜く」ような行為によって、一夜にして霧のように消え去ってしまうという、圧倒的な脆さの証明でした。



デジタルからフィジカルへの揺り戻し

私自身も、ここ数年はAIを仕事・私生活ともに強力なサポーターとして重宝し、その恩恵を大いに受けています。

それは否定しようのない、(後戻りできないレベルに成りうる)きわめて便利な道具です。


しかし現在、私たちが目撃しているのは、無限に拡張できるはずだったデジタル世界が、そのあまりの速度ゆえに自らのシステムを揺るがし、強制的に境界線を引かざるを得なくなった現実です。


つまりある意味で、
「デジタルの拡張性に天井が見えてしまった」ということです。


デジタル世界の「無限にコピー・生成され、効率やスピードが最大化される」性質は、成長を前提とする資本主義とは相性が良いように見えました。

しかし、そもそものシステム基盤をいとも簡単に瓦解できてしまうほどのテクノロジー(Fable 5のような超AI)が誕生し、規制することでしかそれを抑止できない時代に突入したのです。


これはもう、真の自由とは呼べませんね。
自分たちが生み出した怪物を檻に閉じ込めたものの、それを殺すことはできないような状態です。

これぞまさに『寓話(Fable)』です。


この不確実性を突きつけられたとき、私たちの興味関心のベクトルが「デジタルな世界」から「確かな手触りのある物理世界」へと回帰していくのは、生き物として極めて自然な、本能的なバランス感覚だと言えるかもしれません。

 

近頃、私の周りでは、農園や畑仕事を趣味として始める人たちが異様に増えてきています。

自分で育てた野菜を食べるという行為。
そこには、循環する命への「確からしさ」がある。


物質としての重み、土の手触り、トマトの味、鮮やかな色彩、目の前で淹れられるお茶の香りといった「いま、ここ」にしかない身体的体験の価値が、かつてないほど強固なものとして立ち上がってきます。

フィジカルな世界に存在するものは、その全てが複製不可能な「唯一無二の現象」ですから。


人類はいつだって“ないものねだり”ですね。
(かつて夢見た未来の技術=人工知能も、いざ実現してしまえばこのとおり)


私たちは有機生命体として、
同じ空間を共有し、同じ空気を震わせる。

言葉の表面的な意味を超えて、相手の佇まいや気配を受け取る。

そうしたフィジカルなコミュニケーションは、ハッキングされることもなければ、輸出管理規定で停止されることもありません。


ただし、これは「デジタルを捨てて過去に戻ろう」という懐古主義ではありません。

デジタルの利便性や、外部拡張の知能(AI)をツールとして軽やかに乗りこなしながらも、生き方の重心や最終的なアウトプットを「フィジカルな現実」にしっかりと着地させる、ハイブリッドな精神のアップデートが求められてくるのでしょう。


最先端の再定義:ほんとうにのこり続けるもの

デジタル世界が技術的特異点(シンギュラリティ)を迎えたからこそ、もうそれ自体が最先端には成り得ないのだと私は考えています。


むしろその対極にある職人の手仕事や伝統的な美意識、あるいは地域の風土に根ざした営みこそが、「最も先進的で、最も堅牢な暮らしの美学」として光を放ち始めます。

 

もしすべてを失ったとしても、私たちはまたここから立ち上がれる。


記号化された情報がその軽さゆえに漂流する時代だからこそ、私たちは自らの手で触れられる現実を、もういちど丁寧に耕していく必要があるのでしょう。


願ったことを叶える実装コストがどんどん下がってきたことで、豊かさや幸福の在り方が大きく変化している「時代のうねり」をひしひしと感じています。


QUTOTEN.は、最も強く、最も美しいものを見極め、暮らしの中にある「確かなもの」と向き合っていきたいとおもいます。

 

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