【エセー006】無駄を取り入れてみる。

【エセー006】無駄を取り入れてみる。

 

日本の建築には、床の間(とこのま)という空間あります。

 

和室における一段高くなっているスペースで、掛軸をかけたり、花を生けたりする空間なのですが、なかなか不思議だとおもいませんか。

 

日々の暮らしにおいて、床の間が絶対に必要かと言われるとそんなことはないはずです。(今では無い家のほうが多いくらいですね)

 

ご飯をつくったり食べたりするわけでもないし、そこに座って休むこともなく、なにかを収納するわけでもない。

 

なくても生きてゆける空間にも関わらず、床の間はそこにあります。

 

それはなぜでしょうか。

 

。、。、。、

 

床の間は、心を向ける場所なのだと思います。

 

なにかが書かれている掛軸、あるいは生けられた草木と同じ空間にいることで、意識が “なんとなく” そこに向きます。

 

この心の動きを、日本人は大切にしてきたのでしょう。

 

無用の用。

必要な無駄。

自然な不自然。

 

「無駄」と「必要」は共存するわけです。

おもしろいですね。

 

人間に無駄が必要ならば、そもそも無駄という概念自体は矛盾をはらんでおり、堂々巡りになってしまうのですが、それもまた一興。

 

「アート」や「芸術」なるものも近い文脈を感じます。

 

はあ、なんとも無駄で愛おしい議題になって参りました。

 

ライオンならどうでしょうか。

 

生肉を食べるときに、わざわざ葉っぱのうえにそれを盛り付け、花を添えたりするのでしょうか。

 

カタツムリは、自分の殻をデコレーションしたりするのでしょうか。

 

ヤドカリは、石をなにかに見立てたりするのでしょうか。

 

ではクジラは....桜は....ミドリムシは....etc.

 

無駄とは人間の性であり、美学であり、欲望であり、生き甲斐であり、アイデンティティです。

 

「無駄を取り入れてみる。」

というQUTOTEN.の哲学は、こういった人間の愛らしさに着目しています。

 

たのしく生きて参りましょう。

 

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