日本の建築には、床の間(とこのま)という空間あります。
和室における一段高くなっているスペースで、掛軸をかけたり、花を生けたりする空間なのですが、なかなか不思議だとおもいませんか。
日々の暮らしにおいて、床の間が絶対に必要かと言われるとそんなことはないはずです。(今では無い家のほうが多いくらいですね)
ご飯をつくったり食べたりするわけでもないし、そこに座って休むこともなく、なにかを収納するわけでもない。
なくても生きてゆける空間にも関わらず、床の間はそこにあります。
それはなぜでしょうか。
。、。、。、
床の間は、心を向ける場所なのだと思います。
なにかが書かれている掛軸、あるいは生けられた草木と同じ空間にいることで、意識が “なんとなく” そこに向きます。
この心の動きを、日本人は大切にしてきたのでしょう。
無用の用。
必要な無駄。
自然な不自然。
「無駄」と「必要」は共存するわけです。
おもしろいですね。
人間に無駄が必要ならば、そもそも無駄という概念自体は矛盾をはらんでおり、堂々巡りになってしまうのですが、それもまた一興。
「アート」や「芸術」なるものも近い文脈を感じます。
はあ、なんとも無駄で愛おしい議題になって参りました。
ライオンならどうでしょうか。
生肉を食べるときに、わざわざ葉っぱのうえにそれを盛り付け、花を添えたりするのでしょうか。
カタツムリは、自分の殻をデコレーションしたりするのでしょうか。
ヤドカリは、石をなにかに見立てたりするのでしょうか。
ではクジラは....桜は....ミドリムシは....etc.
無駄とは人間の性であり、美学であり、欲望であり、生き甲斐であり、アイデンティティです。
「無駄を取り入れてみる。」
というQUTOTEN.の哲学は、こういった人間の愛らしさに着目しています。
たのしく生きて参りましょう。
。、