“晴れと褻(ハレとケ)”
という言葉をご存知でしょうか。
晴れとは、非日常のこと。
「晴れ着」「晴れ舞台」などの言葉があるように、冠婚葬祭や行事ごと、特別な日を指します。
褻とは、日常のこと。
ごくごく普通で、変わり映えのない生活を指します。
当然ながら、暮らしの大部分を占めるのは、「褻」です。
しかし、SNSの普及によって、僕たちは毎日のように「だれかの晴れ」を間接的に目撃するにするようになりました。
個人にとってたまにしかない非日常も、世界中のあらゆるタイミングで、晴れの出来事は起きているわけです。
(毎日新しい命が生まれ、死ぬように)
そして、だれかの晴れの情報が日常的に入ってくるようになると、ひとは自分の今日さえも特別なものにしたがる傾向があるようです。
ただ、晴れというのはエネルギーを使います。
慣れていないことをするわけですから。
それが毎日となると、疲れます。
ちょうど、毎日背伸びをしながら歩いているようなものです。
QUTOTEN.の哲学に
「目立つのではなく、溶け込む。」
を入れたのは、
褻のなかにも豊かさがあり、
そこにしかない美を再認識するためです。
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すこし話が変わりますが、
利休と同じ時代を生きた茶人で、“丿貫(へちかん)”という人物を聞いたことはありますか。
彼の生き様は、まさに褻の達人でした。
(僕の尊敬する人物のひとりで、夢のなかでよく茶席に招待されます)
信長、秀吉が天下人となる時代は、茶道の最盛期。
抹茶碗にこだわり、茶筒にこだわり、襖にこだわり、茶釜にこだわり、花器にこだわり、水差しにこだわり....
こだわりだしたらキリがありませんが、それらの良し悪しを識別できることが当時のステータスでした。
そんな時代に、丿貫は
「使い込んだ茶釜ひとつあれば、それ以外は必要ない」
というスタンスでした。
お茶の席でもっとも大切なのはなにか。
丿貫にとってのそれは、名物と呼ばれる高価な茶器を見分ける格付けゲームのようなものではなく、シンプルにお客との会話を楽しむことにあったのです。
「会話を楽しむのに、部屋中に気になるものがあったら気が散りますわなあ」
そんなことをよく言っています。
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気取ることなく無理のない状態でいれば、まわりにいるひとも、そして自分自身もリラックスできます。
生活の大部分を占める褻の時間には、
やはり心を落ち着かせていたいもの。
QUTOTEN.のものづくりは、
「褻のためのデザイン」を意識しています。
空間における調和。
暮らしに溶け込む。
使い込むことで別の表情が顕れてくる道具たち。
「ビビットでわかりやすいもの」が注目されやすい時代に逆行する考え方かもしれませんが、作り手としてそのほうがしっくりきてます。
あたりまえの日常に宿る“ケの美”を探して….
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